今でも時々思い出す。
あの時手を引っ張っていれば変わっていたかもしれない。ほんの少しの勇気と強引さがあれば、そして今ならその勇気と強引さも持ち得ているのに。
高校を卒業し中堅規模の印刷会社に就職した。社員は70名程だったと思う。最初の半年は覚える事がたくさんで余裕もなかったが、少し気持ちに余裕が持てた頃、事務員として彼女が途中入社してきた。
どちらかと言うと小動物系の顔で背も低い。声のキーは高く顔立ちは幼く見えた。後で聞いたら自分よりも7歳も年上でちょっとびっくりしたが、彼女なら童顔の自分と一緒に並んで歩いても違和感ないだろうなぁ。なんてことを思っていた。
自分では社会に出て半年以上過ぎ、社会人として見た目を意識はしていたけれど、会社では最年少だったし、親しみを持ってか?彼女「矢田」さんからは、名前ではなく「少年」なんて呼ばれていて、いつの間にか会社での自分の愛称になってしまっていた。
最初は弟の様に思われていたのかもしれない。一人暮らしをしていた自分に、
「少年?ご飯はちゃんと食べてるの?」「シャツがヨレヨレじゃん」「仕事頑張ってるね」なんて色々声をかけられて、自分もあまり年上を意識せず時々ため口で、親しみをもって接していたと思う。
そんなある日、会社の非常階段に設置された喫煙スペースでタバコを吸っていると、矢田さんがひょっこり顔を出して、
「少年?今日夜予定あるの?」「いやなんにもないけれど、なんすか?」
「じゃあ今日はお姉さんが晩御飯おごったげる」「いや急になんで?」
「一人暮らしでロクなもん食べてないんでしょ?遠慮するな」「へぇ~い」
その日、矢田さんから晩御飯をおごってもらい、そこから時々ご飯に連れて行ってもらうようになった。会社が休みの日は矢田さんの買い物に付き合ったり、映画を一緒に見る様になったり。
可愛い雰囲気は目上を感じさせず、お互いの趣味もあったし好みも色々一緒だった。気を遣わず話せて、そばに居てくれるだけで心が安らいだ。自分がバカをやっても何やってんだかって笑って許してくれた。矢田さんと一緒にいること。それがとても、とても心地よかった。
そんなことが数か月。特別どちらかが告白したわけでもなかったけれど
これって付き合ってるんだよなぁ?って思うようになった。もう普通にデートにも誘うようになったし、お金も二人分払うように心がけた。あまり恋愛経験はなかったが気持ちを伝えたくて手を握ってみたり、腰に手を廻して二人一緒に歩いたり。自分の感情はどんどん高まって行った。
そして前ならホテル行きましょうよ!とかキスさせてください!とか言って、矢田さんも、もう!まだ少年でいなさいって笑っていたけれど、そんな事は全く言えなくなってしまっていた。冗談でも変に気持ちを押し付け、振られるのが怖くなっていたから。
実は一度だけ家に来たことがあって、並んでテレビを見ていたけれど、横顔を見ていると我慢できなくなって抱きしめ、唇を押し付ける様にキスをした。
ここから先を!って考えたけれど、顔を離すと駄目だよって優しく言われてしまう。
そしたら途端にガツガツしていたのが恥ずかしく、やっぱり嫌われるのも怖くて冗談ですよぉって、笑ってごまかした全く笑えないけれど。家に来たのはそれっきり。今考えたらずいぶん背伸びをしていたな。
それから何の進展もないまま、会社ではいつもと変わらない矢田さんだったけど、二人で会う回数も減って、どこか遊びに行こうって言っても断られることが多くなった。やっぱ無理にキスをしたのまずかったかな?それとも知らない間に機嫌損ねるようなことしたっけ。デートであの時お金出してもらったのがいけなかったかな?
会社の非常階段でタバコを吸いながら、自分なりに原因を考えるがわからない。
と、下の階から男の話し声が聞こえてきた。女性の事を話している様だ、色々喋っていたから内容はあまり覚えていないけれど、ひとつだけ。
「初めての夜にな?涙流しながらごめんなさいって言うんだ」
「そこ謝る処か?」
「ぎゅっと抱き着いてくるし、そのうち声も絶え絶えになっててさ。死ぬんじゃないかって心配になったよ」
「おぉ!飯もうまいんだろう?才色兼備で良いねぇ」「それでさ……」
生々しい会話してんじゃねえよ……。
一ヶ月くらいたったろうか。
少年!今度の日曜日遊びに行こう!時間空けといてね?絶対だよ。会社ですれ違いざまに急に声をかけられた。ちょっと面食らったけど、ニッコリ笑顔で声かけてくれたし、久しぶりに二人で同じ時間を過ごせるって思うと、めちゃめちゃ嬉しかった。
当日。何時もの場所で待ち合わせて、おはようって声かけたら、微笑んで矢田さんの方から腕に手を廻してくる。一緒に歩いている最中もなんだかテンションが高く、すごく饒舌で、わたし夢があってね?いつか誰かと夫婦になったら、おそろいのマグカップでコーヒー飲むんだとか、少年は貯金ちゃんとしてるの?子供はさ二人位は欲しいんだよね。
もしも結婚したら?のそんな話ばかりしていた。ただ若干二十歳になったばかりの自分にはてんでピンとこない。やがて日が暮れて、行きたいって言ってた洋風居酒屋に向かう。歩いている途中、急に足を止め矢田さんは独り言のように、あぁあれが友達が言ってたラブホテルかぁって、派手なネオンの看板を見つめていた。
矢田さんの握っていた手に力が入った気がする。
「部屋がさ、かわいくて綺麗なんだって」
「そ、そうなんだ。 それより俺お腹すきましたよ、お、お店速く行こう」
「…うん」
終電も近づいた時間。帰りはいつも自分が決まった駅まで送るのだけど、それじゃあって手を挙げ背を向けて歩き出す。ふと正面を見ると、駅に備え付けの鏡に矢田さんが写っていることに気がついた。手を伸ばしかけ、何か言いたげな顔で自分の背中を見ている。
心臓がドキッとし、とっさに別れを切り出されるのじゃないかって、あわてて鏡から視線を逸らす。そして振り返ることなくその場を去った。
翌月曜日からの矢田さんの態度ははっきりとしていた。
基本目を合わさない、仕事についての話も必要最小限。何もかもがそっけない。こないだはあんなにテンション高かったじゃん、なんで?意味が分からず悩み苦しんで心はボロボロ。仕事でもミスを出すし集中できない。流石にここまで露骨な態度に出られると、だんだん怒りの方を感じた。
それでも年上の人だし、会社でプライベートを持ち出して喧嘩するのもって考えたから、言いたい事は山ほどあったけれど、グッと我慢をしてその週をやり過ごした。あぁ俺やっぱ振られたのだろうな?でも振られる理由が分からない。あそこ迄嫌われる言われもない。
でも。どうせ嫌われてるのだったら、今度の仕事終わりに問い詰めてもっと嫌われてやらぁ。
さらに数日が過ぎ
残暑が厳しいなか外回りを終え、会社に帰って事務所に入る。もう喉がカラカラ。その足で給湯室の冷蔵庫に飲み物を取りに向かった。廊下の突き当りにある給湯室で、矢田さんがお茶を入れる準備をしていたのが目に入る。チラッとこちらを見た。
「お疲れ様です」声をかけてもガスコンロにヤカンを置き、何も答えない。
「あの…」「聞こえています」
カチンときた。
「俺なんかしましたか?何でここ迄嫌われてんすか?こっちもつらいんすけど!」
後半の声がつい強く大きくなってしまう。
「何もしてないよ、なんにも」
「ならなんで?どうして?」
「…何にもないから。二人、何にもないから怒ってるんじゃない!少年は優しすぎるんだよ!!」
矢田さんはまっすぐ自分の顔に視線を向け叫ぶ。やがてボロボロと涙があふれ、ほほを伝いだすと、うつむいて横をすり抜けどこかに行ってしまった。
呆然としてその場で立ち尽くす自分。
火にかけられたヤカンは沸騰したのだろう。いつまでもふたがカタカタ動いていた。
それから半年が過ぎ。
矢田さんが寿退社することとなり、最後の出勤日の終わりに部署の人達全員から、お祝いで花束を渡されている。花束を受け取りながらはにかみ、目じりにはわずかに涙が見えた。
自分は彼女を囲う人達の後ろの方でその様子をながめていた。
噂によると最初、婚約者の男性は彼女から全く相手にされず、それでもめげずにグイグイ押しに押して。婚約までこぎつけたのは奇跡だ!やっと気持ちが通じたってずいぶん喜んでいたらしい。相手は会社の先輩だった。
自分はそっとその場を離れると、一人非常階段に向かう。
非常扉を開けて、階段に腰かけタバコに火をつける。暮れていく街並みを見ながら、何時か階下で聞いた男の声を思い出していた。
涙を流しながらごめんなさい。って。
bonsai著